カラオケで「し」を「すぃ」と歌う人の話

あなたの周りにいないだろうか。

決して下手ではないのに、どこかひっかかる歌声を持つ人。あるいは、歌の端々に強い癖を覗かせる人。

その人の歌声を思い浮かべてほしい。

歌詞中の「し」を、「すぃ」と発音していないだろうか。

 

「すぃ」は高等な技術である。使うのは簡単だが、使いこなすのは難しい。

しかしながら歌を歌うのが好きな人間、中でも他人から歌が上手いと思われたい人間に、「すぃ」の音はたまらない悦楽をもたらす。たとえ使いこなせていなくても、「上手に歌えてるっぽい」と歌い手自身に錯覚させる響きのよさがあるのだ。

実際、「すぃ」を使って歌ってみるとなんとなく上手に歌えてるっぽく聞こえてくるので、お好きな歌で試してみてほしい。(ちなみにSMAP、May'n、JUDY AND MARYあたりの曲が個人的におすすめである。)

 

しかし、技術の足りない人間の使う「すぃ」の音は、聞き手の耳をつまづかせてしまう。聞き手に対してそのまま「上手に歌えてるっぽい、と思って歌ってるな」という印象を与えてしまうのだ。

しかしこれは、歌い手の歌う力が聞き手の聞く力を下回った場合の話である。

そして「すぃ」の本当の恐ろしさは、その強い感染力にある。そう、「すぃ」は伝染するのだ。

ひとたび技術を持つ歌い手の「すぃ」を耳にすると、聞く力の低い人間や歌い方のテクニックを求める人間、自分の歌い方を確立していない人間は「すぃ」の持つ「それっぽさ」にたちまち侵食されてしまう。上手い、この上手さの秘密はどこにある…!? そう考える脳裏には既に「すぃ」が潜み、歌う機会(すなわち歌い手にとっては手に入れたテクニックを披露する機会、そして「すぃ」にとっては新たな寄主となる人間に接する機会)を今か今かと待っている。

そうして「すぃ」は見る間に増殖し、我々の生活に違和感なく紛れ込んできた。

そして「すぃ」は今日もまた、深淵に、そしてカラオケの隣室に、あなたの歌声を狙ってひっそりと影を隠すのだ。